2016年12月26日月曜日

ミャンマーのサッカー


「育成」で復活を期すアジアの古豪

ビルマと呼ばれていた1960年代、サッカーのミャンマー代表は、アジアにその名をとどろかせていた。1972年のミュンヘンオリンピック以降、国際舞台から離れるが、近年、その強さが若い世代を中心に復活しつつある。国内でサッカー発展の土壌が整い、国際舞台でも成果を挙げるミャンマーサッカーに注目したい。

ユース世代で圧倒的強さ
ビルマと呼ばれていた時代、ミャンマーは日本サッカーに画期的な技術改革をもたらした。

チョーディンというビルマ出身の学生が日本の東京高等工業学校(現 東京工業大学)に留学。1920年ごろから東京高等師範学校附属中学校などでサッカーの指導を始めた。その後、チョーディン氏が指導した早稲田高等学院が全国高等学校ア式蹴球大会で2連勝を果たすと、彼の指導に注目が集まり、全国の学校で巡回指導が始まった。

チョーディン氏は指導の傍ら、サッカー指導書『How to Play Association Football』を上梓。1923年には日本語版が出版された。写真や図を多用した、具体的かつ理論的な指導書で、同氏の指導と相まって、日本サッカーに技術的にも戦術的にも大きく向上した。同氏は1924年に帰国するが、指導の成果は日本代表による1930年の第9回極東選手権大会優勝、1936年のベルリンオリンピック8強入りなどで実を結んだ。

ビルマサッカーは1960年代に黄金時代を迎えた。代表チームは1966年の第5回アジア競技大会で頂点に立つと、続く第6回(70年)は韓国との両者優勝。その間、1968年にはAFCアジアカップで準優勝の成果を残している。

特に目覚しい活躍を見せたのはユース世代である。アジアユース選手権(現 AFC U-19選手権)で、61、63、64、66、68、69、70年と実に10年間で7度の優勝を飾る強さを誇った。1971年には東京で開催された同大会に出場し、3位決定戦で、奥寺康彦、永井良和らを擁する日本を2-0で退けた。

アカデミーで成長を促す
1972年のミュンヘンオリンピック以降、ビルマは国際舞台の活躍から遠ざかる。しかし、1989年にミャンマーへと国名が変わった後、若い力が台頭。かつての強さを取り戻しつつある。
昨年1月、オマーンで行われたAFC U-22選手権に東南アジアから唯一出場。グループステージはオマーン、韓国、ヨルダンに敗戦を喫するも、アジアのトップクラスのレベルを知る貴重な経験を得て帰国した。
さらにセンセーショナルな活躍を見せたのが、同年10月に自国で開催したAFC U-19選手権だ。グループステージを突破し、準々決勝でアラブ首長国連邦(UAE)に1-0の勝利。見事に4強入りを果たし、今年5月~6月にニュージーランドで行われるFIFA U-20ワールドカップ出場権をつかみとったのである。

ミャンマーはかつての栄光を取り戻すべく、選手育成に力を注いでいる。第2の都市マンダレーにサッカーアカデミーを立ち上げ、全国から集まった逸材が寄宿生活を送りながら、外国人指導者のもとでレベルアップ。2009年にはプロリーグも創設されるなど、発展の土壌が整いつつある。

上昇気流の中、AFC U-23選手権2016予選でオーストラリア、香港、チャイニーズ・タイペイと対戦するU-22ミャンマー代表への期待も高まっている。

(発行元/公益財団法人 日本サッカー協会JFA)

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